みなさん、こんにちは! 関根愛(せきねめぐみ)といいます。わたしは映像や演劇をつくることに関わりながら、マクロビオティックマイスターや発酵食品マイスターなどの食養生にまつわる資格を活かし、さまざまな活動をさせていただいています。昨年ありがたいことにveggy lifeアンバサダーというご縁をいただき、旧暦の新年が始まる本月より、こちらにて連載を書かせていただくことになりました。素敵な機会をいただいたことに、とても感謝しています。
わたしは昨年夏に、十数年暮らした思い入れたっぷりの東京を離れ、鎌倉へ越してきました。本連載のテーマは、海や山と隣り合わせの古都鎌倉での四季折々のこと、自然と調和するやさしい食べ方や生き方などです。月にいちど季節のお便りのように、あるいはささやかな紀行文をしたためるように、暮らしのようすを綴っていきたいと思っています。
「暮らし」と「紀行」とではいっけん矛盾してみえるのですが、そもそもわたしたちの一生を織りなしている日々の暮らしこそ、壮大な一本の旅路のようなもの。たとえ毎日がおなじような景色にみえたとしても、見知らぬ土地へふと旅にでたときのような真新しさや懐かしさを大切にする暮らしを営むことができたら。お読みくださった方がこころ穏やかに、そしてすこしでも愉しい気分になるような読みものをめざして、ここ鎌倉からお届けしていきます。
扇ガ谷にある海蔵寺の冬の風物詩、福寿草
さて、寒が明けました。太陽暦が採用されるまで千五百年あまりものあいだ、日本の人びとの暮らしの基準であった旧暦上の新年。おおくの人が盛大に祝う印象の西暦の新年とくらべ、旧暦の新年はどこか厳かで、そっとしずかにやってきますね。やがて空気中にぷちぷちと徐々に満ちはじめる、やわらかなはじまりの予感。小さな頃はただ寒いばかりで、これといって好きなイベントもなく、寂しい月のイメージばかりが大きかったのが二月でした。
ところがおとなになると、どこに隠れていたのか繊細な感性が顔をのぞかせ、昔は気がつかなかったことに気づいたり、ひとつのことから表にはみえない何かを深く感じ取ったり。それは時として好いことばかりではありませんが、かといって、わるいことばかりでもなく。ただ寒いだけだった二月が、じつは地面の下でしずかに眠っている春が芽吹く直前の気配にあふれたすてきなひと月であると知るようになったのも、おとなになったからでした。
木漏れ日ゆたかな近所の森は、ちょうどよい散歩道。
鎌倉〜逗子は日帰りにぴったりなハイキングコースが多く、楽しめます。
自然の運行に沿うように、生き物たちの活動もはじまっていきます。自宅近くの小さな森では、リスたちが身体よりも大きなふさふさのしっぽを軽やかに跳ねさせながら目まぐるしく動き回り、毎朝聴こえる沢山の鳥たちの声もこころなしか高音になったような。まるですぐそこまできている春の訪れを待ちわびているように弾んでいます。
源氏山公園の大振りな椿
かすかな春の便りといえば、こんなところにも。先日、家の中で一匹のちいさな蜘蛛と出会いました。夏は毎日のようにそこここで出くわしていたのが、秋から冬のあいだにかけてぱったり姿を見なくなった虫たちも、いよいよ動きだしたのでしょう。さらには飛ぶ虫まで。一匹の小さな羽のある虫が、どこからともなくふーっと舞ってきて食卓のうえでしん、と止まっていたのです。久しぶりにみる顔に思わず、冬の終わりを思いました。あちこちでいのちが春に呼びかけられ、反応し始めているのだと。
浜辺から見上げた、ちいさな創(きず)のような新月(みえますか?)
そんな私、つい先日のこと。鎌倉は稲村ケ崎にある、天然温泉へ。ここのお湯は、殺菌効果の高い松の成分をふくむモール泉という泉質。この一帯には太古の昔、松林が広がっていたのだそうです。鎌倉時代には稲村ケ崎海岸の砂鉄から刀剣がつくられたというほど鉄分を多くふくむ砂鉄や、砂浜の砂金までもが、この温泉にまじっていることもあるのだとか。お湯はややとろっとして褐色がかった、つやのあるうつくしい色をしています。
内風呂のおおきなガラス窓は開け放たれていて、半露天といってもいいほど。目線の先には、海と空と江ノ島、そして晴れた日には凛とそびえる富士山。太陽のやさしい光を浴び、海からの生命力あふれる潮風に吹かれながら、こころを空っぽにする時間です。晴れた日の午後も、夕焼けも夜も、どの時間帯でもそれぞれにしかない趣がたまりません。
先日は、夕暮れから宵の口にかけて入りにいきました。自然が踊るようにゆるやかに、その色を変えていくとき。江ノ島のむこうに堂々と沈みゆく陽に照らされた無言の裸のからだがいくつも、言葉を忘れた動物たちのように湯気のなかでただじっとしているふしぎな一体感は、湯場ならではのもの。服を脱ぎ捨て、肩の荷を下ろし、湯のやわらかさで心をほぐされ、自然を目の当たりにした人間のまえにただしずかに時間が流れる光景はとても原始的です。
そうして、いつしか暗くなり始めた空に浮かびあがった新月をぼんやりと眺めていました。冬三日月は、夏とはちがって澄み、冴えわたっています。孤月だとか、氷輪という表現もありますね。どことなく寒々しく、ものさみしげな印象です。まんまるの満月のすがたを知っているわたしたちからすると、冬の新月はとくに、何かが欠けているだとか、あるものがない、足りない姿に映るかもしれない。でもそのとき、目を凝らしてよくみてみると、うすぼんやりと満月になったときのまるい影が、はっきりみえました。ぼんやりなのにはっきりと見えるというのは変な話ですが、そうとしかいえない存在感でした。
わたしは少し安堵した気持ちになりました。生きていると、どこかで何かが欠けたままのような、何かが足りないような不安や孤独を感じるときがありますが、それはまさにこの新月のはじまりのエネルギーなのだと。欠けている部分は、元々ないのではなくて、元々あることの証。不足は逆から観れば、もうすでにちゃんとあるよ、というメッセージなのかもしれない。だから安心して、満月までの道のりを一歩一歩たのしめばいいよと、新月はおしえてくれました。満ちて、欠けて、また満ちる。それをだれに見せるでもなく淡々とくりかえす、月という自然のちから。そのちからはきっとわたしたちの内奥にも備わっているのだと、そんな気がしてきたのでした。
さて鎌倉といえば、〈鎌倉野菜〉といわれる色あざやかな地場野菜の人気があります。鎌倉駅近くの農産物直売所、通称〈レンバイ〉には、色も形もさまざまの新鮮な野菜が並び、休日は多くのひとでにぎわいます。近くの飲食店では、朝方レンバイで仕入れたと思われる鎌倉野菜がふんだんに使われていたりして、身の回りで感じるささやかな循環に嬉しくなったり。
立春といえば、〈緑の野菜〉を食べていくことが養生につながりますね。なかでも菜の花、にら、春菊などほのかに苦みのあるものは、春に崩れやすい〈肝〉のはたらきをととのえてくれる食材。〈肝〉はわたしたちを動かす気の流れをつくるたいせつな場所なので、緑の野菜を食べることで新たな一年の流れもととのえていきたいところ。食べもの以外にも、緑色のものを身につけてみたり、家のなかに置いてみたりすることで、自然界のエネルギーと波長をあわせていく。なんていうのもたのしそうです。
蒸しビーフンに春野菜とエリンギをのせたもの
さあ、ここからぐるっと始まる、新たなひと巡り。いったいなにが待っているでしょうか。「われわれの一生とは行って帰っていくシンプルな運動である」というようなことばを、昔どこかで耳にしました。行って、また帰っていく。欠けて、また満ちていく。その単純なうごきの中にひそむありとあらゆる美しさを慈しみながら、そして愉しみながら、またとない日を暮らしていけたらと思います。
では、次は〈弥生〉の鎌倉でお会いしましょう!
写真・文/関根 愛(せきね めぐみ)